7.気仙沼に住む人たち、帰ってくる人たちのために(佐々木 和元)―オフィスリアンという会社名は、どういう思いを込めて名付けたんですか?佐々木:事務業務だから、まず「オフィス」を付けたんですが、「リアン」というのは、フランス語で、「絆」という意味らしいんです。震災以降、「絆」というキーワードが出てきたので、じゃあ、「オフィスリアン」にしよう、と。―絆という意味が込められた「オフィスリアン」、素敵な名前ですね。気仙沼では家族経営や個人商店が多いというお話だったと思いますが、やはり、在庫の管理等は、Excel等を使わず、手書きだったりするのでしょうか。佐々木:ほとんど手書きだと思いますね。Excelを使える方って、どのくらいいるんだろうな、というのが正直なところです。―そもそもパソコンに縁がないという...2021.06.12 03:27インタビュー東北プロボノプロジェクトオフィスリアン気仙沼
6.海とともにある町、唐桑(佐々木 和元)―遠洋漁業のお父様がいて、お仏壇に手を合わせるなどのルーティーンはあったのですか?佐々木:うちの父は、学校を卒業してすぐ海に出たので、そういうしきたりが分からないんです。お正月に神棚を飾るなども。だから、父はあまりうるさくはないほうだと思いますね。―船に乗っている一年間は、連絡はとれないんですか?佐々木:小さい頃は、ほとんどありませんでした。誕生日に電報が来るくらいでしたね。―同じように、お父さんが遠洋漁業の船に乗られていて、家にお父さんが普段いらっしゃらないようなお子さんは、同級生には多かったのですか?佐々木:私の小中学校は、半分くらいはそういう家庭でしたね。私の住んでいた、唐桑という地域が、特に、漁船の乗組員の方が多かったんです...2021.06.05 00:05東北プロボノプロジェクトオフィスリアン気仙沼インタビュー
5.遠洋漁船に乗っていた父について(佐々木 和元)―佐々木さんのご家庭は、漁業はなされていたんですか?佐々木:父親が遠洋マグロ漁船の漁師なんです。父親は5人兄弟で、4人が男、1人が女なのですが、男4人は皆船乗りになりました。私の祖父は、藤田さんと同じように、ワカメの養殖業もやっていました。あと、うちの地域でも、ウニ、アワビの開口(かいこう)という、採れる日があって、その日は、私も朝収穫を手伝ってから、自分の仕事に行っています。ただ、子供の私は、「漁業には携わるな」、と小さいころから言われていました。父も祖父も、やらせたくなかったんだと思います。幼いころは、「公務員になれ」と言われて、そのために、「勉強しなさい」としか言われた記憶がなく。でも、「勉強しろ」と言われるのが嫌だったので、...2021.05.29 02:15インタビューオフィスリアン東北プロボノプロジェクト
4.気仙沼の総務業務を代行し、気仙沼の産業を生かしたい(佐々木 和元)―今、佐々木さんが経営されているオフィスリアンは、さんりくみらいに加入する前も、色々なお客様に対し、ホームページやシステム構築等をされていたのですよね。今は、それらの仕事と並行して、さんりくみらいのシステムを管理されているということでしょうか。佐々木:そうですね。経営未来塾で、私が作った事業構想は、「気仙沼の各会社の総務業務を一括して、うちの会社で代行しますよ」という内容だったんです。納品や、ホームページの更新や、必要であれば電話応対も、うちでやる、という。元々コールセンターのスタッフだったメンバーもいるので。すべて請け負います、という事業構想を作っていたんです。藤田さんも、その構想が気になって、声をかけてくれたのかな、と思います。...2021.05.21 23:00オフィスリアンインタビュー東北プロボノプロジェクト
3.経営未来塾とさんりくみらいへの参加(佐々木 和元)―経営未来塾に参加されたのは、いつのことでしたか?佐々木:経営未来塾に参加したのは、2015年8月のことですね。会社を起業して2か月くらいで経営未来塾に申し込んで、3か月目で、塾に参加しながら会社を経営していました。経営未来塾を知ったきっかけは、仮設商店街で勤めていた時に知り合った方だったんです。会社を起業した後、色々な方々にご挨拶をしていった中で、その方に、「経営未来塾の第4期がこれから始まるから、お前も大変かもしれないけど、絶対に身になるところだから、参加してごらん」、と教えていただき、経営未来塾に参加しました。経営未来塾では、周りの皆さんは、気仙沼でも有名で大きな会社の跡取りさんなどが多くて、錚々たるメンバーの中に、「この人誰...2021.04.23 23:26オフィスリアン気仙沼東北プロボノプロジェクトさんりくみらいの歴史経営未来塾
2.経営を学ぶことになったきっかけ(佐々木 和元)佐々木:仮設商店街の仕事に一区切りついたところで、また、違う仕事を探そうかな、と思っていた時に、私の祖母が亡くなりました。祖母が亡くなったタイミングで、仮設商店街の仕事からも退職しました。色々と考えたかったこともあり、一度、少し休もうかなと思ったんです。そうこうしているうちに、私が若い頃からずっとパソコンが好きでいじっていたのを知っている地元の友達が、「気仙沼コールセンター」という仕事の話を紹介してくれました。震災直後、被災地に、どんどんとコールセンターを作っていって、最終的に潰れてしまった会社があったんです。「気仙沼コールセンター」も、そのコールセンターの一つでした。震災後の、被災地雇用と、人材育成を兼ねた、国の補助金があって、被...2021.04.17 07:04オフィスリアン気仙沼東北プロボノプロジェクトインタビュー
1.震災の後(佐々木 和元)―佐々木さんは、震災前は、どんな仕事をされていたのですか?佐々木:震災の3年前までは、私は仙台に住んでいまして、2008年4月に、気仙沼に帰ってきました。帰ってきて、最初は、気仙沼市の嘱託職員として、学校の用務員をしていたんです。嘱託職員の契約満了が、ちょうど、2011年の3月31日の予定だったので、その後、4月から、別の仕事として、気仙沼市の体育協会の職員として、採用が決まっていました。ずっとバレーボールが好きでやっていたので、その関係で、運動に携わるような仕事がしたいな、という気持ちがあったんです。震災が起きた時は、その採用が決まって、配属されるのを待つばかりという状況でした。2008年に気仙沼に帰ってきて、嘱託職員として最初に...2021.04.10 02:39インタビュー東北プロボノプロジェクト気仙沼オフィスリアン