6.震災で目の当たりにした光景(吉田 健秀)

―震災が仕事に与えた影響はどうでしたか?


吉田:気持ちでは仕事出来ると思っていたのですけれど、1年間、仕事は出来なかったです。

工場は流されてしまいましたから。まず、街をきれいにするところから、1年かかりました。

その間に、お客さんは、原料の購入先を変えていたり、商売を辞めてしまっていたり。全然お客さんがいなくなってしまっていました。

「再開すれば、時間が経てば、元の通りに仕事ができる。」と思っていたけれど、現実は、そうではなかったってことです。年々サメ肉の需要は減っていくし、震災が仕事に与える影響はすごくありましたよ。


―吉田さんは、震災の時はどこにおられたのですか?


吉田:震災の時は、従業員さん2人に作業してもらっていて、自分は工場から3kmくらい難れた山の方に買い物に行っていました。

凄い地震が来て、大津波警報も出て、地面が揺れていたけど、従業員さんを帰さなきゃいけないと思って、急いで工場に戻りました。

工場も、家も海のすぐ目の前にあって、従業員さんに、山の方に逃げるように伝えて、自宅に戻って、両親は3月11日は確定申告の月なのでその準備をしていたので、大事なものは、全部机の上に出ていて助かったんですけど。

両親には「逃げろ。」って言って自分は急いで、帳簿とか、持って逃げなきゃいけないものは、全部カバンに詰めて、身の回りの整理をして「さあ、逃げよう」とした時には大渋滞で、逃げルートが限られていて、皆まじめだから、右車線はスカスカなのに、左車線でずっと律儀にみんな待っているので、左車線はずっと渋滞していて、「これは逃げられないぞ。」ってなって。

毎年、避難訓練をしていて合同庁舎っていう、4階建ての高いビルが目の前あって、そこに逃げることになっていたので、近所の方を一人乗せて、そこに逃げました。

そのビルから自分の家や工場が流されていくのを見ていました。

そのビルに、2泊3日いました。


―震災の日、とても寒かったですよね。


吉田:ミラクルに寒かったですね。

昼間は春みたいに暖かったんだけど、地震来て、津波が来て、真っ黒くなって、雪が降ってきて、物凄い寒かったです。地獄絵図ってこういうのをいうのかと思いました。


―あの日、気仙沼は火も出ていましたよね。


吉田:気仙沼湾は漁船、商船がいっぱい入るから、重油コンビナートがあって、重油タンクから重油が漏れて色んなものに重油がついて、火がついて陸も燃えていたけど、海一面も燃え続けました。

わかめの養殖いかだなんかにも火がついて。藤田のいかだも燃えていたんでしょうけど、木を使っているからよく燃えるわけです。

それが波で移動して、津波も、押し寄せたり、引いたりずっと繰り返していたから、それをずっと眺めていました。陸も火、海も火の海でした。なのに、「どうしてこのビルはこんなに寒いんだ。目の前燃えているのに、どうして俺らこんなに寒いんだ。」と。ほんとに地獄絵図でした。


―想像するだけで、そんな光景があるんだな、と恐ろしくなってしまいます・・・


吉田:ウルトラマンの映画みたいでした。目の前で、50mある高圧線の鉄塔が、津波来たら、ゴジラの映画みたいに「ヒューパタン」って倒れちゃって。船は津波で、陸にあがってしまって、家をなぎ倒して。


―あの時、沖に出た船もありましたよね。


吉田:相当沖に出さないと駄目ですね。

沖に出ようとしたんだけど、間に合わなくて、津波に押し戻された船も多かったです。そういうの、ビルの上から見ていました。


―津波が来る前に、相当沖に行かないと間に合わなかった。そういう判断も命懸けですよね。


吉田:震災の1か月くらい前にも地震があって、その時も津波警報が出たけど、1mくらいの小さなものだったから「みんなそれに騙された。」っていうのもあると思います。


―油断してしまったところがあったのかもしれないですね。


さんりくみらいの想い

私たち株式会社さんりくみらいは三陸・気仙沼で生きる作り手と全国の食卓を笑顔で結ぶために、想いを共にする仲間たちと会社を設立しました。ECサイト 極上市場「三陸未来」の運営を中心に、リアルな販路開拓やプロモーションの実施。さらにパートナーとなる作り手(生産者、加工業者)を募り商品開発、技術開発を共に行い切磋琢磨できる環境を作ります。