1.震災の後(佐々木 和元)

―佐々木さんは、震災前は、どんな仕事をされていたのですか?


佐々木:震災の3年前までは、私は仙台に住んでいまして、2008年4月に、気仙沼に帰ってきました。帰ってきて、最初は、気仙沼市の嘱託職員として、学校の用務員をしていたんです。
嘱託職員の契約満了が、ちょうど、2011年の3月31日の予定だったので、その後、4月から、別の仕事として、気仙沼市の体育協会の職員として、採用が決まっていました。
ずっとバレーボールが好きでやっていたので、その関係で、運動に携わるような仕事がしたいな、という気持ちがあったんです。

震災が起きた時は、その採用が決まって、配属されるのを待つばかりという状況でした。2008年に気仙沼に帰ってきて、嘱託職員として最初に勤めた学校は、気仙沼市の鹿折地区という、震災で火事になった地区でした。

すごく小さな小規模校でして、3月11日の震災で、学区内の、通っている児童たちの家も含めて、ほぼ8,9割が、被災してしまいました。
それで、震災直後は、「どうなるんだろう」と思いながらも勤めていたのですが、体育協会の職員としての採用は、そのまま進みました。ですので、3月31日の、契約の最終日の状況としては、学校に地区の皆さんが避難をして、避難所として動いている中、嘱託職員の仕事を退職せざるを得ませんでした。

実は、次の仕事も、気仙沼市の体育協会が管理をしていた関係で、気仙沼市の総合体育館だったんです。当時、気仙沼市の総合体育館も、市内全域の方々が避難する避難所となっていたので、避難所にまた勤める、という形になりました。


―震災後、仕事が変わる前も変わった後も、「避難所」が仕事場だったということですね。


佐々木:はい。震災直後の1年間は、ほとんど、避難所スタッフとして働いていた感じでした。避難所となる施設の管理ですね。避難してきた方々のお手伝いといった仕事もしておりました。


―避難所は、どれくらいの期間使われていたんですか?仮設住宅ができるまででしょうか。


佐々木:気仙沼市の総合体育館が、一番最後まで避難所として使われていたと思います。
他の学校の体育館などは、どんどんと集約されていって、総合体育館に皆移ってくる感じでした。最後の方が退所されたのは、2012年の1月だったかな、と思います。


―ほぼ1年間だったんですね。


佐々木:はい。そうですね。
私は幸い、自宅も残り、家族も無事だったのです。

でも、3月11日からずっと、家を失ったり家族を亡くした方々に接して仕事をしてきたので、どこか、「いいのかな、自分」、という気持ちがありました。避難されてきた方々の中には、仕事を無くされたりした方もいる中、「あれ、なんだろう」と思いながら、避難所運営の仕事をしていたんです。

そんな時に、たまたま、知っている方が、「仮設の商店街を作るから、手伝ってくれ」、と声をかけてくれました。そこで、今から一生懸命頑張ろうとしている人たちのお手伝いをしたいと思って、体育協会の仕事を辞めたんです。そして、本当の店舗ができるまで、皆さんのお手伝いといった感じの仕事をさせていただいておりました。

その後、仮設の商店街が、一区切りが見えてきたところで、仮設とは言え、商店街の皆さんの売り上げの中から給料をいただいていたので、「これでいいのだろうか」という思いが出てきたんです。商店街の皆さんも、だんだん、仮設商店街での商売にも慣れてきて、自分の手助けもいらなくなってきた頃でした。


<続く>

さんりくみらいの想い

私たち株式会社さんりくみらいは三陸・気仙沼で生きる作り手と全国の食卓を笑顔で結ぶために、想いを共にする仲間たちと会社を設立しました。ECサイト 極上市場「三陸未来」の運営を中心に、リアルな販路開拓やプロモーションの実施。さらにパートナーとなる作り手(生産者、加工業者)を募り商品開発、技術開発を共に行い切磋琢磨できる環境を作ります。