2.震災での変化と、後を継ぐ決心(千葉 裕樹)

―千葉喜商店の震災前と震災後の変化をお教えいただけますか?


千葉(裕):私は、震災前は、家業の修行名目なのですが、東京で会社員をしていました。

震災発生時は気仙沼に居ませんでしたので状況が細かく分からなくて。

震災の1年後に家業に戻りました。

会社の状況は全壊で、1年ぐらい経って工場が出来ました。

そのタイミングくらいで帰りました。


―千葉さんが跡を継ごうと思ったきっかけを教えていただけますか?


千葉(裕):実は、小さい頃から「魚屋さんにはなりたくない」って思っていました。

魚屋さんって、朝が早い、魚の臭いとか、きつい肉体作業とか、荒々しいといイメージであまり好きではないな、というのは、小さい頃から思っていて。

継いだ理由は、まだ自分は社長ではないですが、やはり震災で、工場が新しく出来て、新しく始まるに等しい状態で、両親が社長と専務で、結構な年齢なので、帰らない選択はないな。と。

親のことを考えてですね。


―東京では、水産関係のお仕事をされていたのですか?


千葉(裕):そうです。冷凍の水産物を扱う会社で働いていました。

一応、修行っていう名目で。

最初3年って言っていたのですけれど、仕事が非常に面白くて、結果10年いました。


―震災からどれくらい経って気仙沼に最初に入られたのでしょうか?


千葉(裕):2か月後、GWくらいですね。

ほんとは、直ぐに気仙沼に行きたかったのですが、行けなくて。


―気仙沼に入られた時、どのような印象でしたか?


千葉(裕):自分が考えていた以上の悲しい街の姿ですね。言葉が出なかったですね。

やはり、最初に気仙沼に着いたときは、ショックが大きかったですね。


―新しい工場は内陸の方に建てたのですか?皆さん内陸に移られたのでしょうか?


千葉(裕):はい。内陸の方に建てました。

でも、その頃、なかなか、工場を建てられるくらいの内陸に土地が無くて。

皆さん内陸部に行こうとしたけれど、土地を見つけられた方は多くなくて、

結果的には多分、元の場所に戻った方も多いのではないかと思います。


―千葉さんが戻られると聞いて、お父さんはどのような感じでしたか?


千葉(裕):喜んでいたとは思います。

私がずっと帰らなかったので、「ようやくか」、という感じでしょうか。


―新工場に戻られてからは、ご両親と一緒に仕事を始めて、今は千葉さんがメインで仕事をされている感じでしょうか?


千葉(裕):そうです。両親もまだ、仕事をしていますが、引継ぎなどしていかなくてはいけないと思っています。



(つづく)


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さんりくみらいの想い

私たち株式会社さんりくみらいは三陸・気仙沼で生きる作り手と全国の食卓を笑顔で結ぶために、想いを共にする仲間たちと会社を設立しました。ECサイト 極上市場「三陸未来」の運営を中心に、リアルな販路開拓やプロモーションの実施。さらにパートナーとなる作り手(生産者、加工業者)を募り商品開発、技術開発を共に行い切磋琢磨できる環境を作ります。